社 長 コ ラ ムCOLUMN
あれ? 初日に出社してない!
中途採用、新卒採用、アルバイトなどの雇用形態を問わず、入社、転職、退職にともなうトラブルというのは、星の数ほどエピソードがあり、枚挙にいとまがありません。思わぬことがときおり発生するものです。今回は私たち東京エグゼクティブ・サーチが遭遇した大変めずらしい事例を取り上げ、対処に奔走したことなど振り返りながらご紹介したいと思います。
ここでは仮にAさんとしますが、この人物は40代で独身、広告業界で非常に優秀な人材として知られる営業マンでした。当時はインターネット広告が世に生まれ、社会を席捲しはじめている頃でした。インターネット広告のベンチャー企業は急速に成長する市場に自社の組織づくりが間に合わず、伝統的な広告ビジネスを知っている方を、喉から手が出るほど欲している時期でした。そのようなタイミングでAさんは広告業界の豊富な経験を評価され、急成長しているインターネット広告のベンチャー企業に執行役員として入社が決まりました。退職交渉なども円満に進み、入社数日前には私たちTESCOもお祝いの一席を設けました。そして前日の夜には本人からご丁寧に「このたびは大変お世話になりました。明日からは粉骨砕身、がんばってまいります」とお電話も頂戴いたしました。この段階で何ら懸念することはありませんでした。
そして入社日を迎えました。私たちの業界では入社の確認をするために、午前中にその企業様に対してご連絡を入れるのが一般的な慣習でした。しかしその確認の電話を入れた時に、担当者離席ということで連絡がつきませんでした。折り返しを待っていたところ、午前が過ぎ、お昼をすこし過ぎた頃に人事担当者からお電話をいただきました。そして「A氏は出社しておらず、本人に連絡がつかない」と告げられました。ここで読者のみなさまはどういうことを想像されるでしょうか。多くの方は次のように考えると思います。
①事故や急病で連絡がつかない状態にある
②思うところがあり急に出社を取りやめた
他にも何か思いつくケースがあるかもしれませんが、おおむねこの2項目に集約されると思います。Aさんに置き換えてみましたが②は考えにくいと思われました。なぜなら昨夜の段階でお礼の電話を受けているので、翌朝に職場を放棄したとは考えにくいからです。しかも執行役員として栄転なのですからなおさらです。では①はどうでしょう。事故や急病だとしても電話1本できない深刻な状況なのかどうか。そういう事態が発生していれば大変なことになりますので即刻対応を取らなければなりません。独身ということもあり、近くに誰もいなかった可能性は残ります。このようなことは起き得るけれども、発生率は高くないと思われます。そしてAさんが出社する企業はまだ若いベンチャー企業でした。人事担当者も状況が把握できておらず、混乱しているようでした。TESCOでもその電話を受けて私のもとに報告に来た担当者は気が動転していました。生意気なことを言うようですが、私にはそこそこの経験がありましたから、話を聞いた瞬間に思いついたことがありました。実はこのひらめきが正解でした。何が起きていたかというと、Aさんは警察に拘留されていたのです。拘留されるにはいろいろな要因があるでしょう。もともと何かの捜査線上にあり、逮捕された日が偶然初出社の日だったとか、そんな想像もしてしまいます。読者のみなさまも気がつかれたかもしれませんが、痴漢の疑いで現行犯逮捕され、拘留される場合があります。いろいろなケースがあるのですが、原則として所持品はすべて警察に没収されます。連絡の手段である携帯電話は警察が使用している電波を遮断する特殊な袋に入れて、電源が切れていなくても強制的にオフにされます。この時点で48時間の拘留がはじまります。本人から会社に連絡が来ないのも致し方ありません。しかも警察は携帯電話を操作しませんから充電がなくなります。この時点で二重に連絡が取れなくなるわけです。
ということで、これは何らかのトラブルが発生して拘留された可能性があるのではないかと考えました。私は若い頃修業を兼ねて探偵をしていたことがあるので、このようなことに多少知識がありました。そこでAさんの居住地や通勤経路をたどって該当する警察署に聞き込みをしてみました。これは裏技ですが実に有効でした。やはりAさんは痴漢の疑いで拘留されていました。関係者に事情を聞いてみると本人は否認しているということで、48時間の拘留後も拘留が延長されることが確実になりました。この時点で本人が罪を犯したのか冤罪なのか、わかりませんでしたが、私たちエージェントができることは内々に企業側に事情を伝えて善後策を講じることでした。このケースでは大きな会社や、人事が経験豊かな会社であれば、連絡がつかなくなって丸一日経過する頃に「警察に拘留されているのではないか」と気がつくと思います。Aさんが入社する会社は人事担当者がそこまで知見を持っていなかったので、私はひそかに人事部長にアポイントメントを取り、失礼ながら担当者を飛ばして、その日の夕方に秘密裡に面談し、事情を伝えました。私たちの独断であるけれども確認を取ったところ拘留されているということを伝え、本人が否認している(現在は個人情報の管理が厳しくなっているが当時は人脈を駆使して情報を入手できた)ことも伝えました。そして本人が否認している以上、この段階で最終的な判断をするのが軽率に思えたので「この問題は一旦、本当のことを伏せた状態で社内に告知しませんか」と提言しました。「それはどうしてですか」と人事部長が尋ねたので「先ほど申し上げたとおり、この段階で御社の人事担当者様は警察拘留されているということを推測しているような様子はありませんでした。しかしこれから数日連絡がつかないということになる可能性が高そうですから、おそらく人事担当者様から雑談に尾ひれがついてこの話が拡散し、無罪であっても本人の復職の望みが断たれてしまう可能性があります。本人が事実を認めたら入社辞退もしくは解雇ということで入社取り消しの事由に該当しますが、このタイミングではまだ判断が難しいと思われますので、事態を知られないように例えば急病とかいうことで人事部長の裁量で一旦減免する形を取りませんか」という工作をして、その日にできる範囲の措置を行いました。TESCOの担当者は履歴書で住所がわかっていたので、本人のいない自宅に行ってもらい、様子を見てきてもらいました。私が何を見てくるよう指示したかというと「郵便受けをのぞいてくるように」と言いました。もし郵便受けに新聞や郵便物がたくさん入っているなら、入社直前でありながら自宅にいなかったということになり、私生活に何らかの問題を抱えていた可能性が出てきます。私はそのあたりを探る意味もあって担当者に指示したわけです。ところがAさん宅の外観を観察したところ郵便受けはカラで、ベランダに洗濯物もありません。これはやはり前日までは出社の準備を万端にして備えていたであろう、と判断できました。出社初日に痴漢という心理が私には理解できませんでしたが、当日はこのようなドタバタ劇がありました。
その後の展開について詳細は省略しますが、この件では本が1冊書けるほど内容の濃い経験をしました。結果的にAさんは起訴されて裁判を受けるわけでもなく、痴漢は冤罪ということで釈放されました。というのは痴漢を仕掛けた者たちがいて、男女のペアがオヤジ狩りをしていたことが判明したからです。その後、被害届は取り下げられ、比較的早期にこの問題は解決することになりました。いろいろすったもんだはありましたが、Aさんは無事に着任し、その後6年半にわたって執行役員としてご活躍なさいました。
このような運や不運があったとしても、この方にとってツキがあったのは、入社される会社がベンチャー企業で、こうした問題に対してのマニュアルが整備されていなかったことです。社内に「問題を起こした人」と断定する雰囲気が醸成されなかったことで、後ろ盾になった社長や役員の尽力が功を奏し、入社が許されたということです。もうひとつ、痴漢行為は否認しても裁判になれば被告が負ける可能性が高く、そうなるとメディアに報じられることもあり得るので、事態の収拾が難しくなるのですが、早い段階で仕掛けた者たちがAさんを吊るし上げたということがわかり、事実が判明したこと。この2点が幸運に作用したといえるでしょう。
私たちTESCOがエージェントとしてどこまでできるかという問題はありましたが、この事例を振り返ると候補者の名誉や利益を保全するのはエージェントであり、当局が最終的な判断をするまで私たちが推測でものごとを決めるのではなく、できる限り時間をかけるようにして、候補者を守ることが重要だと思います。自画自賛するわけではありませんが、Aさんの事案でも結果的にそのようになったことを誇りに思っています。